ブックレビュー|増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(上) (下)
「血が滾(たぎ)る」とはこのことを言うのだろう。本書を詠み始めたとたん、読んでいるこちらの血が沸点へ達するのを感じた。それほど、この書き手の「これを伝えたい」「書かねばならない」という熱い激情が、行間から迸って伝わってくるのだろうと思う。
あの木村政彦の評伝である。
もともと新書として発刊された時から話題を呼び、ノンフイクションにおける賞も受賞している。それほどの名著。文庫化されたのを知り、すぐに購入した。
だが、本書はそれだけに留まらず、木村という軸を中心に、日本の柔道というジャンルそのものを包括的に捉える試みをしているように思う。
講道館柔道だけではない。かつて講道館を凌駕する勢いであった対抗組織・武徳会や、(名前だけは聞いたことのあった)高専柔道なども取り上げ、現在の講道館中心の””正史””の裏面やサイドストーリーも紐解いてできうる限りニュートラルな立場で柔道の世界を俯瞰しようといているように見える。
もちろん、あの木村×力道山戦が主軸であることは言うまでもない。
単行本が発売された折、興味を惹かれていたが、買わず仕舞いになってしまっていたところ、このたびの文庫化で今度こそ読もうと思い立ったが、これほど面白い内容とは。
力作の名に恥じない作品だろう。
上巻は戦争が終わり木村がプロ柔道に参加、海外遠征へ向かったところまで。
下巻は、いよいよブラジルに乗り込み、グレイシー柔術の始祖・エリオとの対決へと臨む。
上巻に続き、ブラジルに渡った木村がいよいよグレイシー柔術と対戦するという、世界格闘技史におけるパラダイムシフトともいえるエポックを経て、力道山戦へと向かう本書。
圧巻、である。
著者はこの本ですべてを書き尽くそうとしたのだろうと思う。
そんな大作に対し、読む側は精も根も尽き果てでつきあわなくてはならない。よって、知ったかぶりで感想などと陳腐なことを書くのはおこがましい。
この本には、木村政彦の全生涯が描かれている。
もちろんそれでも割愛した部分はある、と本書内で断りを入れられてはいるが。
個人の一生を俯瞰させられて、何を語れるのだろう。ましてや対象は凡人ではない。史上最強の柔道家、いや人類史上最強の男・木村政彦伝である。
ただ、ひとつ僭越ながら文句を言わせていただけるなら、終盤は著者の思い入れがあまりに強すぎ、「すべてを書き尽くす」ことが主眼となってしまったきらいがあり、やや冗長気味に感じてしまった。
読み物として捉えるなら、木村の弟子・岩釣や更には石井慧の挿話はもう少し割愛してすっきりと終わってしまったほうが読後がさっぱりしたのではないかと感じた。
ただ、それもまた本書の歴史資料としての価値を考えれば、欠点があろうとも已む無しかもしれない。
本書は何よりも木村政彦を研究するための資料として今後何十年にも亘って重用されていく、それくらいの力作だと思う。だからこそ、読み物としてのバランスよりも、できうる限りの資料を記しておくことを選んだのだろう。
ノンフィクションとは、かくあるべきと教えられた一冊だった。
[(上)2014/05/18、(下)2014/05/28読了]